★[タレント]黒柳徹子(くろやなぎてつこ)のすべて

● 活力の源はおしゃべり!? エピソード多すぎ。タレント、黒柳徹子さんの情報です。




● 日本のテレビ放送開始以来長年に亘り第一線で活躍している、テレビ放送史を代表する芸能人の1人。
● テレビ朝日『徹子の部屋』の司会や、累計800万部を記録し、戦後最大のベストセラーとなっている『窓ぎわのトットちゃん』の著者として知られる。


【 出生・学生時代 】
● 名前は、両親たちが男の子が生まれると思い「徹」という名前を考えていたのだが、実際は女の子が生まれたため「子」をつけて「徹子」とした。
● 父は音楽家で、NHK交響楽団のコンサートマスターも務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓田口)、母は声楽家でエッセイストの黒柳朝(旧姓門山)。弟はヴァイオリニストの黒柳紀明、妹はバレリーナでエッセイストの黒柳眞理、伯父には日本ニュースのニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュースの極東代表を務めた田口修治がいる。
● 幼少期、注意欠陥・多動性障害・学習障害と推測される問題児であったため、公立小学校を1年生時代に退学させられ、トモエ学園1年生に転校する。
● 第二次世界大戦中は青森県三戸郡南部町に疎開。 トモエ学園、香蘭女学校、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科卒業。慶應義塾大学文学部に聴講生として学ぶ。


【 ラジオ、テレビの黎明期 】
● 1953年にテレビ女優第一号の一人としてNHKに入局した。
● 放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などの失言を繰り返したのにもかかわらず、合格できた。
● 女優の志望動機は、母親になった時に子供に絵本を読み聞かせられるようになりたかったからだった。
● 1954年、NHKラジオ第1で放送され、自身初の主演となったラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」が開始した。同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。
● 本人の談によると、東京都世田谷区砧にあるNHK放送技術研究所でのNHKの試験放送で顔の左右を青白に塗り分けて撮影されたという。当時実験段階であったカラー放送の試験撮影のためであり、その様子は斉藤由貴主演の映画『トットチャンネル』(1987年)でも再現された。
● テレビ放送開始当初は映像が悪く、黒柳が初めてテレビ番組に出演した日に、それを喫茶店で観ていた母親が黒柳に「あなた、どうしてキツネのお面なんて被ってテレビに出たの?」と言ったという。もちろん黒柳はキツネのお面など被っていないが、顔が真っ白、髪は真っ黒、口も目も横に裂けたような線が入ってしまってキツネのように見えたのだろうと本人が語っている。そのようなこともあって、テレビ放送開始後もしばらくはラジオが主流だったという。


【 徹子の部屋 】
● 1976年にはテレビ朝日で自身の冠番組「徹子の部屋」が開始。長寿番組となっている。2011年4月27日放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された。
● 日本初のトーク番組「徹子の部屋」を始めるにあたり、黒柳がテレビ朝日に出した条件が「スタッフの入れ替えをしないこと」「編集をしないこと(撮って出しの手法)」であった。
後者の理由は「ゲストのありのままの姿を引き出すため」「番組の質の低下を防ぐため(帯番組を編集するのは多大な労力がかかる)」「ゲスト・黒柳・スタッフの三者間で『ここをカットしてほしい』『ここを残してほしい』と編集に関する意見が衝突するのを防ぐため」の3点である。黒柳は「一切編集をしない。ほぼ生放送の状態。だから皆さん本心を話してくれるんでしょう。」と語っている。
● 話す内容は、黒柳がゲストについてその日担当のディレクターからレクチャーを受けた際に、その内容を特注のメモ用紙(紙の寸法はA6)に2Bの鉛筆で縦書きに書いたものを繋ぎ合わせたリスト(台本や質問稿ではない)をテーブルに置いて進行する。老眼鏡を使わないで読むので、ゲストに驚かれることがある。そのメモの上にゲストがコップを置くと除けたり、置かないようにあらかじめ釘を刺す。メモが汚損などして使い物にならなくなった際にはアドリブトークになるが、切り替わったことは一度もない。
● 放送第1回目のゲストは森繁久彌であったが、その際森繁は黒柳の胸を触った。また、2009年11月11日に森繁が死去した際には、翌12日に追悼特集が放送されている。
● 黒柳の衣装はゲストと事前打ち合わせはせず、黒柳およびスタイリストによって選ばれている。放送開始から8000回を超えるまでは全て黒柳本人が衣装を用意・選定していたが、その後はスタイリストが用意した衣装も着用するようになった。
● 常連のゲストのさらに一部の相手とは、”お約束”と言えるような展開で行われる。例えば、小沢昭一が単独ゲストの場合、黒柳と小沢が何らかのテーマに沿った扮装をしてトークを行う「扮装シリーズ」が定番となり、2010年の小沢の最後の出演までに15回行われた。1996年の、黒柳がセーラームーン、小沢がクレヨンしんちゃんのコスプレをして視聴者の度肝を抜いた時は(いずれもテレビ朝日系列のアニメ)、東スポの一面トップに黒柳の姿がカラー写真で出た。
● 番組では、黒柳への信頼などからゲストがそれまで公にしていなかった自身に関する重大事を告白することもある。和田アキ子は「黒柳さんだから申し上げるんですけれど」と、自身の病気が子宮癌だったことを告白し、2003年には大空眞弓が癌に罹患していることを公表している。また、2009年には赤木春恵が乳癌であったことを告白。大山のぶ代は脳梗塞を患っていたことも告白している。さらに、武田鉄矢が初めて鬱病体験を語ったほか、小川宏が自らの自殺未遂・鬱病体験を初めて告白したのも「徹子の部屋」である。2001年には伊原剛志が在日朝鮮人であること、2009年には長門裕之が妻・南田洋子の認知症を告白した。こうした告白は、翌日以降の新聞や雑誌などにニュースとして取り上げられることもある。
● 2006年7月10日放送の回では、ゲストの春風亭昇太が前回出演した際、ソフトボール部に所属していた話をするが、黒柳がソフトボールというスポーツそのものを理解できず、話が先に進まなかったVTRが放送された。
● ジャイアント馬場がゲスト出演した際にヒンズースクワットをすすめられ、毎日行っている。馬場はこれからわずか2ヶ月後に亡くなり、黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と述べている。
● 野球音痴で有名(ルールや選手その他を全く知らない)。金田正一との対談の際、「国鉄(当時スワローズ)の金田です」の自己紹介に対して「どちらの駅にお勤めですか?」と尋ね金田を唖然とさせたという。『徹子の部屋』に野球関係者が出演した時は、「どうしてここで監督はホームランのサインを出さないのかしらと思った」「サヨナラホームランを打ったのに引退しないのはどうして」「野球の審判って大変ですよね。投手の投げた球をバッターが打ったら一塁まで走って行かなきゃならないんですよね」などといった大ボケ発言を連発する。
● 様々な俳優、文化人の才能を引き出すトークがある一方、お笑いタレントがゲストの時には、芸人がネタを見せた際「面白い!」と一人喜んでいつまでも出演した芸人のネタの披露をやめさせないこと、またゲストがトークに入る前に開口一番「今日は何か面白いネタを披露して下さるんですって?」とわざとトークのハードルを引き上げること等がある。
● TBS『チューボーですよ!』に黒柳が出演した際、堺正章が「『徹子の部屋』で気に入らなかったゲストとかいますか?」と尋ねたのに対し、黒柳は「気に入らないゲストはそもそも呼びません。ゲストは私が選んでます」と発言した。しかし、実際の所ゲストは基本的にスタッフが選び、黒柳が関与するのは最終段階のみだという。しかし、福本清三のように本来出演予定になかったものが、黒柳の意向で出演を依頼したケースもある。
● ゲストが大橋のぞみの回。
のぞみちゃん「悲しくないのに、きけばきくほど涙が出るのはなに?」
黒柳徹子「カラシとか、そういう話かしら」と、アッサリ瞬殺したうえ、
黒柳徹子「臭くて甘くて怖いものな~んだ?」
のぞみちゃん「うーん…」
黒柳徹子「むずかしいかな?降参したほうがいいかな?」
のぞみちゃん「(はにかみながら)降参です…」
黒柳徹子「トイレで饅頭食べてる鬼。」


【 世界・ふしぎ発見! 】
● 1986年にはTBS「日立 世界・ふしぎ発見!」が放送を開始し、こちらも長寿番組になっており、黒柳は初回から毎回出演している。また、初回から毎回出演している人物は黒柳の他には司会の草野仁のみである。
● TBS「世界・ふしぎ発見!」などのクイズ番組の書き問題時には、必ずと言っていい程答えを縦書きで書き(ただし、答えの中にアルファベットが入っている場合は例外的に横書きにする)、漢字を最大限に使う。衣装は着物姿で出演する。
● クイズの答えに必要な知識を得るため、図書館にも熱心に通っていることで知られる。番組の問題製作者が図書館で参考にした資料(本)を本棚に戻したところ、直後に黒柳がその本に手を伸ばした、というエピソードもある。ただし、スタッフからは事前にテーマを知らされるため、その知識をある程度勉強すれば、それなりの正解率があげることが可能である。
● 番組では、歴史関連の知識の豊富さから「日本で唯一黒船を見た女」とあだ名されたことがある。後年、『徹子の部屋』で、ゴリエから「黒柳さんはペリーの黒船来航の際に通訳を買って出たというのは本当ですか?」と質問された時にも、黒柳はこれを否定せず、自分でも黒船を見たような気がしているとユーモラスに答えた。
● 長く番組を放送しているが、黒柳はこれまでに出題された問題とその解答をほとんど覚えており、関係者に舌を巻かれたこともあるという。
● 2014年9月13日には「黒柳徹子 不老不死伝説 100歳まで元気に美しく生きる方法」という企画が放送された。番組内では「番組始まって以来最大のミステリー」と紹介された。


【 ザ・ベストテン 】
● 1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBSの音楽番組「ザ・ベストテン」が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた。
● ヨーガが得意で、着衣のまま水中浮揚を披露したこともある。
● 近藤真彦のファンであり、芸能界の母親代わりを自認している。
● 黒柳の話が余りに長くなると、久米が強引に話を打ち切り歌や中継に振ることも多かった。
● 担当時、毎回同じ靴を履いていた。様々な所から靴が送られてきたがサイズが小さく、履けなかった。本人のサイズは24cm。
 

ザ・ベストテン 1980-81
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ザ・ベストテン 1982-1983
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【 NHK紅白歌合戦 】
● 1958年の「第9回NHK紅白歌合戦」では、自身初となるNHK紅白歌合戦の紅組司会を務めた。
● 史上最多の通算5回、赤組司会を務めている。
● 1958年当時は、テレビ各局で、紅白と同様に外部の大型劇場を借り切っての歌謡番組が大晦日の「目玉プログラム」として編成されていたため、出場歌手の大半が紅白の放送が始まる時点でまだ会場に到着していないという異常事態が起きている。その混乱ぶりから、黒柳は松島詩子の出番の際に、誤って「渡辺はま子さん」と紹介してしまうミスを犯している。


【 窓際のトットちゃん 】
● 1981年、自身の著書『窓ぎわのトットちゃん』が出版された。単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し、世界35カ国で翻訳された。累計770万部という発行部数は、日本国内において「戦後最大のベストセラー」となり、「トットちゃんブーム」が起こった。
● 東京都目黒区自由が丘にかつて存在し、著者の黒柳が通学したトモエ学園を舞台に、黒柳自身の小学生時代についてはもちろん、トモエ学園に於けるユニークな教育方法(リトミック、電車を利用した教室など)や、校長である小林宗作の人柄が描かれ、また黒柳の級友も全員実名で、その中でも初恋の相手に物理学者の山内泰二も登場する、完全なノンフィクション。
● 作中で黒柳自身は、「トットちゃん」と三人称で語られている。これは、当時の本人が舌足らずで名前の「徹子(てつこ)」を「トット」と発音していたことにちなむ。
● 1982年の園遊会に招待され、昭和天皇に『窓ぎわのトットちゃん』について部数と翻訳国数を交えた説明をしたところ、「たいそうお売れになって」と言われた。この一言により、まるで昭和天皇に自著の自慢をしているように映ってしまい、周囲から爆笑され、本人は照れ笑いを浮かべる他なかった。

 
 


【 タモリ 】
● タモリとの関係も深く、黒柳はタモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の一人でもある。
● タモリが赤塚不二夫に連れられ、テレビ朝日の生放送番組『赤塚不二夫の世界』に出演し、インチキ牧師を演じていたところを番組を見ていた黒柳が「今の人、誰? すごいじゃない」とテレビ朝日にいる赤塚宛に電話を入れ、是非『徹子の部屋』に出て欲しいと出演依頼を行った(タモリの初出演は1977年8月11日)。
● タモリは『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演するのが恒例となっており、ゲスト出演の最多回数を誇っている。
● タモリが『徹子の部屋』にゲストとして出演する際には、テレビでほとんど見られなくなった何らかの「密室芸」の披露をしている。
● 1980年代の放送では「マヨネーズ石狩鍋」や「たくあんを洗った水で作ったクリームソーダ」、「チョコレートしゃぶしゃぶ」、「あんこ鍋」など、通常では考えられないゲテモノ料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた。
● 1984年3月14日放送のフジテレビ『笑っていいとも!』の名物コーナー「テレフォンショッキング」に出演した際に、“43分間喋り続ける”という伝説を残した。そのため放送時間がなくなり、「テレフォンショッキング」の後に予定されていたレギュラーコーナー2つのうち1つを潰さなければならなくなり、双方の司会担当者がじゃんけんをして、潰す方を決めた。
● 2005年12月16日には21年ぶりに登場し、またも放送時間内で39分間喋り続けた。2011年7月25日と2014年3月28日にも出演したが、普通のゲストよりやや長い時間程度で終了した。
● タモリが出演する『トリビアの泉』には、事務所の人に「出たい」と願い出て出演した。2006年2月22日放送の『トリビアの泉』において、「『徹子の部屋』で美少女戦士セーラームーンのコスプレをしたことがある」、「30年以上いつもノーブラで過ごしている」と2本連続で紹介され、検証VTRに本人が登場して事実と認めた。
● 黒柳は、タモリが振舞う料理を食べるため、タモリの家に行くことがあり、食べた料理は写真に残すようにしている。


【 渥美清 】
● NHK『夢であいましょう』で共演した渥美清とは関係が深い。
● 共演当時、熱愛疑惑が持ち上がったことがある(本人談)。
● 渥美は1979年1月3日の『徹子の部屋』にゲスト出演している。(この出演が最初で最後であるが、黒柳によるとその後何度も渥美に出演を依頼したもののいずれも拒否されたとのことである。)
● 渥美の死去が公表されたのは、黒柳自身の誕生日である8月9日。
● 映画『男はつらいよ』最終作のマドンナ役に選ばれる予定だった。第47作では、山田洋次に撮影現場を見に来てくれと言われて訪問している。
● プライベートでも仲が良く、普段は「お兄ちゃん」と呼んでいたが、そんな黒柳でさえ渥美の自宅や連絡先を知らず、渥美の家族にも「お別れの会」で初めて会ったと言う(生前の渥美はプライバシー秘匿を徹底していたため)。その後渥美の妻とは、親交が続いている。

 


【 ユニセフ 】
● 芸能活動以外にも、国際連合傘下のUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動が特に知られる。
● 黒柳がユニセフ親善大使に就任することになったきっかけは、当時ユニセフ事務局長だったジェームス・グラントが『窓ぎわのトットちゃん』を緒方貞子の紹介により読んだことである。
● 黒柳は個人で募金活動を行っており、黒柳のもとへ寄せられた募金総額は2014年現在50億円以上に上る。黒柳のもとへ寄せられた募金は事務費用などには一切使われず、100%がユニセフの本部へ送られ、子どものために使われている。
● 1997年にユニセフの政府拠出金が削られそうになった時、黒柳は親善大使として自ら新聞に投書して政府拠出金の維持を訴えかけた。黒柳の投書を読んで当時外務大臣だった小渕恵三が黒柳に直接電話し、「今日予算のことなんで、ユニセフのために頑張るからね」と話した。そして、黒柳の尽力もあってその年はユニセフの政府拠出金は削られなかった。
● ユニセフ親善大使としての黒柳への年間報酬は1ドルである。
●「人間が死ぬ運命の日は予め決まってるものだから、それまでは何やったって死なない」と言い残すと地雷原へ突入。
難なくボールを持ち帰り子供たちへ渡したという。
● アフガニスタン視察中、トラックは空爆に遭うからという理由でロバをチャーター。
160万人もの難民に衣類や栄養食を届けた。


【 パンダ 】
● 子供の頃、叔父がアメリカからのおみやげにパンダのぬいぐるみを持って帰ってきたことをきっかけにパンダの研究を始めた。パンダの研究は70年以上に及び、日本パンダ保護協会名誉会長を務めている。
● 黒柳がテレビ出演をするようになってからは、当時日本では知られていなかったパンダを紹介した。そして、黒柳の尽力もあって1972年には、日中国交正常化の記念に2匹のパンダ「カンカン・ランラン」が日本に初上陸。上野動物園に展示され、一大パンダ・ブームが起こった。
● パンダ初来日の日には、仕事のリハーサルを抜け出して上野動物園の裏口でパンダを乗せたトラックの到着を長時間待っていたが、パンダはコンテナの中で外からは全然見えなかった。


【 タマネギ頭 】
● その形状から「タマネギ頭」と称される髪型もよく知られているが、大好きなマリー・アントワネットの髪型をモデルにしていると話している。なお、ヘアースタイルの考案者は当時ニューヨークで活躍中だった須賀勇介である。
● 芸能界七不思議の1つと言われるこの髪型については理由があり、毎日髪形を変えると、視聴者の関心が黒柳の髪に集中してしまってゲストの方へ行かない、また襟足が出るので、黒柳の斜め後ろからの画像になっても「ふんふん」と頷く時に髪ばっかり揺れているという絵にならず、首が見えるので少しは人間味がでる、あるいは和装でも洋装でもちょっとアレンジすれば済むなどの理由で固定していると言う。
● 髪の毛を小物入れとして活用している。『徹子の部屋』で青山テルマが出演した時に髪の毛の中から飴玉を取り出し、その際に「いつもはお煎餅も入れているんですけど、今日はないわ」とも発言している。また、黒柳に近い関係者によると、黒柳はかなり前から髪の毛をポケットとして使っており、海外に行く時はパスポートや大事な書類も髪の毛の中に入れることもあるという。髪の毛に小物を入れる理由は、子供たちに会った時にプレゼントするためと話す。
【 エピソード 】
● 愛車は、トヨタ・プリウス。
● なぜか、食べ物の消化が通常より4倍早い。人間ドックで調べたところ発覚。
● 大泣きする赤ちゃんに「あなたが泣いたら困る」と発言して泣き止ませる。
● 放送のハイビジョン化が進むとハレーションが使えなくなるので、その時には引退するつもりである、と発言している。
● 1971年のニューヨークへの留学以来「圧迫感がないからいい」とノーブラで過ごしており、「ザ・ベストテン」の司会で白いドレスを着ていたところ、乳首が透けて見えていたのを久米宏に注意されたこともある。
● 2013年上期のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』のファンであり、初回から最終回まで全話視聴したと話す。なお、同作内に『ザ・ベストテン』のパロディ番組並びに黒柳を模した司会者役(演:清水ミチコ)が登場している。
● 司会者でも有数の鼻濁音の使い手として有名である。また、早口で話すことも特徴である(早口喋りは生放送をこなしてきたことも原因と話す)。
● 日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉会長を務める。
● 尊敬する司会者に度々エド・サリヴァンの名を挙げる。
● 基本的に水を飲まない。
● 基本的に手を洗わない。
● ネコに説教するのは上手。
● シロクマ、サイ、ゾウとかと話せる。シロクマに口説き方を教え、動物園の人に感謝された。


参考) ローラ お互い人の話を聞かない黒柳徹子が凍りついた天然娘 – エキサイトニュース
参考) ネコに説教、シロクマとカバを説得?黒柳徹子の超人伝説がスゴイ – IRORIO(イロリオ)
参考) 「個性が強すぎる」と敬遠され、小学校退学も…知られざる黒柳徹子の人生とは



● 本名 : 黒柳徹子
● 別名 : トットちゃん
● 生年月日 : 1933年8月9日
● 出生地 : 東京都港区乃木坂
● 身長 : 163cm
● 血液型 : A型
● 事務所 : 吉田名保美事務所
 
 
 
 

   
 

トットひとり
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● 2014年 死神くん 第7話( テレビ朝日金曜ナイトドラマ )
● 2014年 森光子を生きた女〜日本一愛されたお母さんは、日本一寂しい女だった〜( ) ナレーション
● 2011年 おひさま 最終話( NHK連続テレビ小説 ) 須藤(旧姓筒井)育子(現代)役
● 2009年 歌のおにいさん 第5話・最終話( テレビ朝日金曜ナイトドラマ )
● 2007年 和田アキ子殺人事件( TBS )
● 1987年 チョッちゃん( NHK連続テレビ小説 )
● 1975年 あこがれ共同隊( TBS )
● 1975年 元禄太平記( NHK大河ドラマ )
● 1973年 銀座わが町( NHK )
● 1971年 繭子ひとり( NHK連続テレビ小説 )牟田悌三と夫婦役を演じた。
● 1971年 鬼退治( NET ) 巴役
● 1970年 おさな妻( 東京12チャンネル )
● 1970年 乱戦模様( NHK )5月15日)- ルリ子役
● 1967年 徳川の夫人たち( NET ) 矢島局役
● 1961年 若い季節( NHK ) 黒金徹子役
● 1959年 夜の仲間( NHK )

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● 2013年 いわさきちひろ 〜27歳の旅立ち〜( クレストインターナショナル ) ドキュメンタリー
● 1999年 アイ・ラヴ・ユー( 全国映画センター ) 本人役(特別出演)
● 1977年 春男の翔んだ空( 現代ぷろだくしょん ) 書店の客役
● 1974年 ムツゴロウの結婚記( 松竹大船 )
● 1972年 サマー・ソルジャー( 勅使河原プロ )
● 1966年 喜劇 駅前漫画( 東京映画 ) ミミ子役
● 1962年 ちんじゃらじゃら物語( 松竹京都 )
● 1958年 海は生きている( 日活 ) ドキュメンタリー。東野英治郎と共に解説。

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初出:2015年08月09日、テレビの悪足掻き