★[タレント]黒柳徹子(くろやなぎてつこ)のすべて

体調がちょっと心配(´・ω・`) タレント、黒柳徹子さんの情報です。・・・それにしても、エピソード多すぎ!


エピソード

日本でのテレビ誕生と同時に生まれたテレビタレントの先駆けとして、長年に亘り第一線で活躍し、現在に至るまで唯一テレビ番組のレギュラーを継続して持ち続ける、テレビ放送史を代表する芸能人の1人である。現在、同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者として、記録更新中である。
テレビ朝日『徹子の部屋』の司会や、累計800万部を記録し、戦後最大のベストセラーとなっている『窓ぎわのトットちゃん』の著者、ユニセフ親善大使として知られる。東洋音楽学校で3期上だった石橋エータローによると、同校在学中既に黒柳は喋り過ぎだったため「口にチャックしろ」の意味で「チャック」と呼ばれていたという。

【 出生・学生時代 】
東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂に生まれ、大森区(現・大田区)北千束町で育つ。
名前は、両親たちが男性が生まれると思い「徹」という名前を考えていたのだが、実際には女性を出産したため「子」をつけて「徹子」とした。
父は音楽家で、NHK交響楽団のコンサートマスターも務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓田口)、母は声楽家でエッセイストの黒柳朝(旧姓門山)。3人の弟には幼くして亡くなった黒柳明兒、ヴァイオリニストの黒柳紀明、24歳年下の黒柳貴之、妹にはバレリーナでエッセイストの黒柳眞理がいる。
幼少期、注意欠陥・多動性障害・学習障害と推測される[誰によって?]問題児であったため、尋常小学校(現: 公立小学校)を1年生の時に退学させられ、トモエ学園1年生に転校する。
第二次世界大戦中、東京大空襲をきっかけに、以前に北海道の母の実家から帰る汽車で青森の農家と隣り合わせた縁で青森県三戸郡(現・南部町)の諏訪ノ平に疎開する。

【 ラジオ、テレビの黎明期 】
テレビ放送の開始を翌月に控えた1953年(昭和28年)1月にテレビ女優第一号の一人として日本放送協会に入局し、NHK放送劇団の一員となる。当初はラジオやテレビの通行人として出演しつつ、テレビの現場を学ぶ。
NHK放送劇団、文学座研究所を経てテレビ女優の第一号としてデビューし、放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などの失言を繰り返したのにもかかわらず、合格できたという。
1954年、NHKラジオ第1で放送され、自身初の主演となったラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 – 1957年)が開始した。同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。以降も『チロリン村とくるみの木』(1956年 – 1964年)、『ブーフーウー』(1960年 – 1967年)などに出演し、さまざまなキャラクターの声を演じる。
本人の談によると、東京都世田谷区砧にあるNHK放送技術研究所でのNHKの試験放送で顔の左右を青白に塗り分けて撮影されたという。当時実験段階であったカラー放送の試験撮影のためであり、その様子は斉藤由貴主演の映画『トットチャンネル』(1987年)でも再現された。
テレビ放送開始当初は映像が悪く、黒柳が初めてテレビ番組に出演した日に、それを喫茶店で観ていた母親が黒柳に「あなた、どうしてキツネのお面なんて被ってテレビに出たの?」と言ったという。もちろん黒柳はキツネのお面など被っていないが、顔が真っ白、髪は真っ黒、口も目も横に裂けたような線が入ってしまってキツネのように見えたのだろうと本人が語っている。そのようなこともあって、テレビ放送開始後もしばらくはラジオが主流だったという。
子ども番組に加えて『若い季節』(1961年 – 1964年)、『夢で会いましょう』(1961年 – 1966年)などの人気番組にも出演し、週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになる。
NHK専属女優時代、「NHKは私をずーっと降ろしていた」と述べている。
1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』では、自身初となるNHK紅白歌合戦の紅組司会を務めた。それから22年の月日が経った1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅組司会に復帰し、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで4年連続、通算5回紅組司会を務めた。4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれも佐良直美に並び史上最多である。
 


 
【 窓際のトットちゃん 】
1981年、自身の著書『窓ぎわのトットちゃん』が出版された。単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し、世界35カ国で翻訳された。累計770万部という発行部数は、日本国内において「戦後最大のベストセラー」となり、「トットちゃんブーム」が起こった。また、黒柳は同作で、「第5回路傍の石文学賞」やポーランドの文学賞「ヤヌシュ・コルチャック賞」などを受賞した。
東京都目黒区自由が丘にかつて存在し、著者の黒柳が通学したトモエ学園を舞台に、黒柳自身の小学生時代についてはもちろん、トモエ学園に於けるユニークな教育方法(リトミック、電車を利用した教室など)や、校長である小林宗作の人柄が描かれ、また黒柳の級友も全員実名で、その中でも初恋の相手に物理学者の山内泰二も登場する、完全なノンフィクション。
1981年、自身の著書『窓ぎわのトットちゃん』が出版された。単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し[2]、世界35カ国で翻訳された。累計770万部という発行部数は、日本国内において「戦後最大のベストセラー」となり、「トットちゃんブーム」が起こった。また、黒柳は同作で、「第5回路傍の石文学賞」やポーランドの文学賞「ヤヌシュ・コルチャック賞」などを受賞した。
作中で黒柳自身は、「トットちゃん」と三人称で語られている。これは、当時の本人が舌足らずで名前の「徹子(てつこ)」を「トット」と発音していたことにちなむ。
  

 
【 タマネギ頭 】
その形状から「タマネギ頭」と称される髪型もよく知られているが、大好きなマリー・アントワネットの髪型をモデルにしていると話している。なお、ヘアースタイルの考案者は当時ニューヨークで活躍中だった須賀勇介である。
芸能界七不思議の1つと言われるこの髪型については理由があり、毎日髪形を変えると、視聴者の関心が黒柳の髪に集中してしまってゲストの方へ行かない、また襟足が出るので、黒柳の斜め後ろからの画像になっても「ふんふん」と頷く時に髪ばっかり揺れているという絵にならず、首が見えるので少しは人間味がでる、あるいは和装でも洋装でもちょっとアレンジすれば済むなどの理由で固定していると言う。
髪の毛を小物入れとして活用している。『徹子の部屋』で青山テルマが出演した時に髪の毛の中から飴玉を取り出し、その際に「いつもはお煎餅も入れているんですけど、今日はないわ」とも発言している。また、黒柳に近い関係者によると、黒柳はかなり前から髪の毛をポケットとして使っており、海外に行く時はパスポートや大事な書類も髪の毛の中に入れることもあるという。髪の毛に小物を入れる理由は、子供たちに会った時にプレゼントするためと話す。

【 ユニセフ 】
芸能活動以外にも、国際連合傘下のUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動が特に知られる。
黒柳がユニセフ親善大使に就任することになったきっかけは、当時ユニセフ事務局長だったジェームス・グラントが『窓ぎわのトットちゃん』を緒方貞子の紹介により読んだことである。
黒柳は個人で募金活動を行っており、黒柳のもとへ寄せられた募金総額は2014年現在50億円以上に上る。黒柳のもとへ寄せられた募金は事務費用などには一切使われず、100%がユニセフの本部へ送られ、子どものために使われている。
1997年にユニセフの政府拠出金が削られそうになった時、黒柳は親善大使として自ら新聞に投書して政府拠出金の維持を訴えかけた。黒柳の投書を読んで当時外務大臣だった小渕恵三が黒柳に直接電話し、「今日予算のことなんで、ユニセフのために頑張るからね」と話した。そして、黒柳の尽力もあってその年はユニセフの政府拠出金は削られなかった。
ユニセフ親善大使としての黒柳への年間報酬は1ドルである。
「人間が死ぬ運命の日は予め決まってるものだから、それまでは何やったって死なない」と言い残すと地雷原へ突入。
難なくボールを持ち帰り子供たちへ渡したという。
アフガニスタン視察中、トラックは空爆に遭うからという理由でロバをチャーター。
160万人もの難民に衣類や栄養食を届けた。

【 パンダ 】
子供の頃、叔父がアメリカからのおみやげにパンダのぬいぐるみを持って帰ってきたことをきっかけにパンダの研究を始めた。パンダの研究は70年以上に及び、日本パンダ保護協会名誉会長を務めている。
黒柳がテレビ出演をするようになってからは、当時日本では知られていなかったパンダを紹介した。そして、黒柳の尽力もあって1972年には、日中国交正常化の記念に2匹のパンダ「カンカン・ランラン」が日本に初上陸。上野動物園に展示され、一大パンダ・ブームが起こった。
パンダ初来日の日には、仕事のリハーサルを抜け出して上野動物園の裏口でパンダを乗せたトラックの到着を長時間待っていたが、パンダはコンテナの中で外からは全然見えなかった。

【 交友関係 】
劇作家・飯沢匡を師と慕い、飯沢没後も飯沢のことを話す際には必ず先生付けで話している。
元NHKアナウンサーで女優の野際陽子とは、NHK専属女優時代からの友人。20代の頃から、一緒に飯沢匡主催のフランス語のレッスンに参加したり、同じデザイナーに服を作ってもらったり、プライベートでの時間を沢山共有していた。2000年代以降でも時々一緒に食事に出かけており、年に1度のタモリ宅での食事会に同行したりしている。
同じく元NHKアナウンサーの小川宏とは『ジェスチャー』(1955~64年)の頃から知り合いで、黒柳は小川の司会ぶりについて「さらさら流れるから『春の小川』じゃないの」とキャッチフレーズを命名し、その後、小川の代名詞となった。
直木賞作家の向田邦子とも加藤治子の紹介から親交を結ぶようになり、料理の上手な向田の作ったお惣菜をよくご馳走になっていた。その縁でTBSで長らく放送された、久世光彦プロデュース・演出の「向田邦子ドラマシリーズ」のナレーションを務めていた。
永六輔とは60年来の親友で、永が亡くなる2016年まで『徹子の部屋』に39回出演し、7月12日に永の追悼番組として放送した。永から「黒柳が亡くなった際の葬儀委員長をやる」とよく話されていたが、実際は永が先に亡くなり、黒柳が永のお別れの会でメッセージを述べることとなった。そのお別れの会で黒柳は永の顎が外れたエピソードを話し、会場が爆笑となった。
1980年代までは、黒柳が司会を担当していた『ザ・ベストテン』と並ぶ音楽番組であったフジテレビ『夜のヒットスタジオ』の芳村真理とは犬猿の仲では、と伝えられていたが、実際はこの2人も1960年代頃からの親友である。芳村は『ヒットスタジオ』司会時に身につける毎回派手な服装が話題になっていた頃、「あなた、いいわねー。必ずカメラにターン(下から上に向かってカメラの角度を変えながら出演者の全影を撮影する手法)してもらえるんだもの。」と黒柳に番組収録で顔を合わせる度に羨ましがれたという(『ミッツ・マングローブの歌声デート』(CS・歌謡ポップスチャンネル)出演時の芳村の発言より)。
沢村貞子を母さんと呼んで慕っており、よく自宅を訪れる間柄であった。彼女の甥である津川雅彦や長門裕之、長門の妻である南田洋子らとも交流が深い。2011年5月24日の長門裕之の葬儀告別式では弔辞を読んでいる。
杉良太郎とは1960年代のドラマ共演以来、半世紀の付き合いになる。
水谷豊とは会う時もハグ、別れる時もハグ、お互いを“ハグ友”と呼び合っている。

【 渥美清 】
NHK『夢であいましょう』で共演した渥美清とは関係が深い。
共演当時、熱愛疑惑が持ち上がったことがある(本人談)。
渥美は1979年1月3日の『徹子の部屋』にゲスト出演している(この出演が最初で最後であるが、黒柳によるとその後何度も渥美に出演を依頼したもののいずれも拒否されたとのことである)。
渥美の死去が公表されたのは、黒柳自身の誕生日である8月9日。渥美の死は山田洋次から電話で聞いている。
映画『男はつらいよ』最終作のマドンナで寅次郎が就職した幼稚園の園長先生役に選ばれていた。
プライベートでも仲が良く、普段は「お兄ちゃん」と呼び『男はつらいよ』の映画も一緒に見ていたがそんな黒柳でさえ渥美の自宅や連絡先を知らず、車で送った際にもいつも近くのところで降りていた。渥美の家族にも「お別れの会」で初めて会ったと言う(生前の渥美はプライバシー秘匿を徹底していたため)。その後渥美の妻とは、親交が続いている(2006年12月の『徹子の部屋』より)。
ただし、渥美清が生前出演した回顧番組で、黒柳徹子の言葉に傷ついたことが何度かあると告白していた。その番組で、お嬢様育ちの黒柳には、自分のような貧しい育ちの人間のことがわからず、悪気はなかっただろうと語った。
 


 
【 タモリ 】
タモリが赤塚不二夫に連れられ、テレビ朝日(NET)の生放送番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日放映)に出演し、インチキ牧師を演じていたところを(ちなみにその「タモリ牧師」は、1989年から2014年までの、『笑っていいとも!特大号』のオープニングでまで毎年、見ることができたほか、2014年3月31日の『笑っていいとも!』最終回でも披露した。ただし、2000年代に入ると、タモリ本人もマンネリを感じてきており、多々「こんな牧師いるわけないでしょ」と言いながら演じ、ネタにしていた)番組を見ていた黒柳が「今の人、誰? すごいじゃない」とテレビ朝日にいる赤塚宛に電話を入れ、是非『徹子の部屋』に出て欲しいと出演依頼を行った(タモリの初出演は1977年8月11日)。これ以来、タモリは『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演するのが2013年までは恒例となっていた。
タモリが『徹子の部屋』にゲストとして出演する際には、テレビでほとんど見られなくなった何らかの「密室芸」の披露をしているが、1980年代の放送では「マヨネーズ石狩鍋」や「たくあんを洗った水で作ったクリームソーダ」、「チョコレートしゃぶしゃぶ」、「あんこ鍋」など、通常では考えられないゲテモノ料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた。
1984年3月14日放送のフジテレビ『笑っていいとも!』の名物コーナー「テレフォンショッキング」に出演した際に、「43分間喋り続ける」という伝説を残した(これは、後述する2014年1月14日放送まで最長記録だった)。そのため放送時間がなくなり、「テレフォンショッキング」の後に予定されていたレギュラーコーナー2つのうち1つを潰さなければならなくなり、双方の司会担当者がじゃんけんをして、潰す方を決めた。2005年12月16日には21年ぶりに登場し、またも放送時間内で39分間喋り続けた。2011年7月25日と2014年3月28日にも出演したが、普通のゲストよりやや長い時間程度で終了した。
1998年までフジテレビの番組にはほとんど出演せず、その後も数回しかフジテレビ系列の番組に出ていない。タモリが出演する『トリビアの泉』には、事務所の人に「出たい」と願い出て出演した。
黒柳は、タモリが振舞う料理を食べるため、タモリの家に行くことがあり、食べた料理は写真に残すようにしている。

【 徹子の部屋 】
1976年の『徹子の部屋』の放送開始を機に、「役を演じながら司会もやると混乱を招く」「悪女役をしていたら、悪い人が話を聞いているみたいに思われる」との考えから、本人役などで出演した一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになる。
日本初のトーク番組『徹子の部屋』を始めるにあたり、黒柳がテレビ朝日に出した条件が「スタッフの入れ替えをしないこと」「編集をしないこと(撮って出しの手法)」であった(ただしこれは番組がいつまで続くか分からなかった開始当初のことであり、実際にはプロデューサーやディレクターは入れ替わっている)。後者の理由は「ゲストのありのままの姿を引き出すため」「番組の質の低下を防ぐため(帯番組を編集するのは多大な労力がかかる)」「ゲスト・黒柳・スタッフの三者間で『ここをカットしてほしい』『ここを残してほしい』と編集に関する意見が衝突するのを防ぐため」の3点である(ただし1度だけカットをしたことがあるという)。黒柳は「一切編集をしない。ほぼ生放送の状態。だから皆さん本心を話してくれるんでしょう。」と語っている。
話す内容は、黒柳がゲストについてその日担当のディレクターからレクチャーを受けた際に、その内容を特注のメモ用紙(紙の寸法はA6)に2Bの鉛筆で縦書きに書いたものを繋ぎ合わせたリスト(台本や質問稿ではない)をテーブルに置いて進行する。老眼鏡を使わないで読むので、ゲストに驚かれることがある。そのメモの上にゲストがコップを置くと除けたり、置かないようにあらかじめ釘を刺す。メモが汚損などして使い物にならなくなった際にはアドリブトークになるが、切り替わったことは一度もない。
放送第1回目のゲストは森繁久彌であったが、その際森繁は黒柳の胸を触った。
黒柳の衣装はゲストと事前打ち合わせはせず、黒柳およびスタイリストによって選ばれている。放送開始から8000回を超えるまでは全て黒柳本人が衣装を用意・選定していたが、その後はスタイリストが用意した衣装も着用するようになった。
黒柳とゲストのトークは基本的にゲストの活躍している内容について行われるが、常連のゲストのさらに一部の相手とは、「お約束」と言えるような展開で行われる。例えば、小沢昭一が単独ゲストの場合、黒柳と小沢が何らかのテーマに沿った扮装をしてトークを行う「扮装シリーズ」が定番となり、2010年の小沢の最後の出演までに15回行われた。1996年の、黒柳がセーラームーン、小沢がクレヨンしんちゃんのコスプレをして、視聴者の度肝を抜いた時は(いずれもテレビ朝日系列のアニメ)、東スポの一面トップに黒柳の姿がカラー写真で出た。
番組では、黒柳への信頼などからゲストがそれまで公にしていなかった自身に関する重大事を告白することもある。和田アキ子は「黒柳さんだから申し上げるんですけれど」と、自身の病気が子宮癌だったことを告白し、2003年には大空眞弓が癌に罹患していることを公表している。また、2009年には赤木春恵が乳癌であったことを告白したほか、大山のぶ代が脳梗塞を患っていたことも告白している。さらに、武田鉄矢が初めて鬱病体験を語ったほか、小川宏が自らの自殺未遂・鬱病体験を初めて告白したのも『徹子の部屋』である。2001年には伊原剛志が在日朝鮮人であること、2009年には長門裕之が妻・南田洋子の認知症を告白した。こうした告白は、翌日以降の新聞や雑誌などにニュースとして取り上げられることもある。
野球音痴で有名(ルールや選手その他を全く知らない)。金田正一との対談の際、「国鉄(当時スワローズ)の金田です」の自己紹介に対して「どちらの駅にお勤めですか?」と尋ね金田を唖然とさせたという。『徹子の部屋』に野球関係者が出演した時は、「どうしてここで監督はホームランのサインを出さないのかしらと思った」「サヨナラホームランを打ったのに引退しないのはどうして」「野球の審判って大変ですよね。投手の投げた球をバッターが打ったら一塁まで走って行かなきゃならないんですよね」などといった大ボケ発言を連発する。
2006年7月10日放送の回では、ゲストの春風亭昇太が前回出演した際、ソフトボール部に所属していた話をするが、黒柳がソフトボールというスポーツそのものを理解できず、話が先に進まなかったVTRが放送された。
ジャイアント馬場がゲスト出演した際にヒンズースクワットをすすめられ、毎日行っている。馬場はこれからわずか2ヶ月後に亡くなり、黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と述べている。
TBS『チューボーですよ!』に黒柳が出演した際、堺正章が「『徹子の部屋』で気に入らなかったゲストとかいますか?」と尋ねたのに対し、黒柳は「気に入らないゲストはそもそも呼びません。ゲストは私が選んでます」と発言した。しかし、実際のところゲストは基本的にスタッフが選び、黒柳が関与するのは最終段階のみだという。しかし、福本清三のように本来出演予定になかったものが、黒柳の意向で出演を依頼したケースもある。

【 世界・ふしぎ発見! 】
1986年にはTBS「日立 世界・ふしぎ発見!」が放送を開始し、こちらも長寿番組になっており、黒柳は初回から毎回出演している。また、初回から毎回出演している人物は黒柳の他には司会の草野仁のみである。
TBS『世界・ふしぎ発見!』などのクイズ番組の書き問題時には、必ずと言っていい程答えを縦書きで書き(ただし、答えの中にアルファベットが入っている場合は例外的に横書きにする)、漢字を最大限に使う。
1986年の番組開始当初、それまでクイズ番組に出演したことがなかったため、「当時『徹子の部屋』と『ザ・ベストテン』をやっていましたので、もし、クイズができなくて『頭、悪いんじゃないの?』と思われることを心配しました」と、当時は出演を迷っていたという。
衣装は着物姿で出演する。この理由は「(世界の歴史や文化を取り上げる番組にもかかわらず)レギュラーで日本の伝統的な着物を着ている人が一人もいないということが分かったこと」「もし答えができなくても着物を来てれば、誰だか分かんないかもと思ったこと」の2点である。
正解率の低い野々村真と解答が同じになると露骨に嫌な顔をする(もちろんネタであり、本心ではない)。また、一度自身だけが不正解になった事があり、司会の草野仁から感想をもとめられ「不愉快です!」と嫌悪感を表したエピソードがある(これもネタであり、本心ではない)。ちなみに、黒柳は三択問題を苦手とする傾向が見られる。
板東英二とは『ふしぎ発見!』で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン!」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン!」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。「オバン!」以外には「お母さん」と呼ぶこともある。黒柳は、関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。黒柳は、野球に対する知識が全くないが、内容を吟味しているのか、会話が混乱することはない。
番組では、歴史関連の知識の豊富さから「日本で唯一黒船を見た女」とあだ名されたことがある。後年、『徹子の部屋』で、ゴリエから「黒柳さんはペリーの黒船来航の際に通訳を買って出たというのは本当ですか?」と質問された時にも、黒柳はこれを否定せず、自分でも黒船を見たような気がしているとユーモラスに答えた(2006年放送)。
長く番組を放送しているが、黒柳はこれまでに出題された問題とその解答をほとんど覚えており、関係者に舌を巻かれたこともあるという。

【 ザ・ベストテン 】
1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBSの音楽番組「ザ・ベストテン」が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた。
出演する歌手が地方や海外に行っていてスタジオに来られない場合でも、「追いかけます、お出かけならばどこまでも」を売りに、当時TBSアナウンサーだった松宮一彦や生島ヒロシ、JNN各局のアナウンサーが「追っかけマン」「追っかけウーマン」として登場し、TBS系列各局の協力を得て、現地からの歌唱を中継披露するのも恒例行事であったが、追っかけの対象は歌手だけでなく司会である黒柳にも及んだ。これは番組開始時に、黒柳が司会に就任する条件の一つとして「毎年海外旅行に行くので2 – 3週間の夏季休暇が取れること」を挙げ、番組側がこれを受諾したことが遠因である。しかし、番組制作側としては要の一人である黒柳を3週間も欠くことは大きな痛手であると考えたため、結局黒柳の旅行先である海外までスタッフを派遣し衛星生中継で黒柳を出演させた[51]。黒柳を追いかけての衛星生中継は1978年のニューヨークに始まり[52]オスロ、パリなど毎年夏の恒例となり、1984年には遂に久米も一緒に海外に飛び出してミュンヘンからの生中継を行った。
ヨーガが得意で、着衣のまま水中浮揚を披露したこともある。
近藤真彦のファンであり、親子のような関係だと自認している。ある時、近藤が「車を欲しいんだけど、タイヤだけでいいから買ってくれないか」と頼まれたんです。タイヤは4つ必要じゃないですか。だから、私がジャニーズ事務所のジャニー喜多川さん、メリー喜多川さんと久米さんに頼んで4人で買ってあげることにしたんです。久米さんは「何で俺が…」って言っていたけど。桑田佳祐も近藤同様親子関係だと黒柳は述べている[30]
黒柳の話が余りに長くなると、久米が強引に話を打ち切り歌や中継に振ることも多かったが、若林正人のようにこのことで久米批判はしていない。
久米について黒柳は「渥美さんのような温かさはないんです。でも、考え方や持って生まれた価値観が似ていて、話が合う。」と述べている。 
 

 
【 紅白歌合戦 】
1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』で、紅組司会を初めて務めた。現存している映像の中から、江利チエミと淡谷のり子の歌の音声の紹介の時には、黒柳の曲紹介の音声も一緒に紹介された(後の声と比べると高い声をしている)。当初、番組側は当時常連出場歌手の楠トシエを紅組司会に起用する予定だったが、当時は歌手兼司会が認められておらず、歌手としての出場を希望した楠が紅組司会の打診を断った。楠に続いて打診を受けた黒柳は「歌手の方と付き合いが乏しい」と拒否したが、番組側の説得に応じる形で最終的に引き受けた。
1958年当時は、テレビ各局で、紅白と同様に外部の大型劇場を借り切っての歌謡番組が大晦日の「目玉プログラム」として編成されていたため、出場歌手の大半が紅白の放送が始まる時点でまだ会場に到着していないという異常事態が起きている。その混乱ぶりから、黒柳は松島詩子の出番の際に、誤って「渡辺はま子さん」と紹介してしまうミスを犯している(しかし後年、『徹子の部屋』に松島がゲスト出演した際に、黒柳はこの件につき謝罪したところ、当の松島本人はすっかりこの時の黒柳のミスのことを忘れていた)。
1980年には、『ザ・ベストテン』、『徹子の部屋』、『音楽の広場』の司会ぶりを買われ、22年ぶりに「第31回NHK紅白歌合戦」の紅組司会に起用されたが、その際、黒柳は紅組司会を受ける条件として、「紅白の番組構成に私の意見を取り入れて欲しい」と要望。これが「1980年代最初の紅白なのでフレッシュな内容にしたい」と考えていたNHK側の思惑と合致しての司会起用であった。なお、これは後に自身が更新するまで紅白における司会返り咲きの最長ブランクだった。この年は、宝くじの抽選会で使用されているものと同仕様のルーレットを使用して、本番の中で攻守を決めるという異例の構成が採られたが、これも黒柳の「自身の意見を取り入れて欲しい」という要求を与して考え出されたものであるとされる。
1984年の『第35回NHK紅白歌合戦』も当初は引き続き黒柳の紅組司会起用で決定しかけていたが、この年9月に黒柳が「もう今年が引き時では」と辞退を申し入れる。結局、白組司会の鈴木は続投したが、紅組司会はこの年紫綬褒章を受章し、黒柳とも親交がある森光子に交代となった。

【 その他 】
未婚である。2013年12月26日放送のNHK総合テレビ『あさイチ』で「これまでに2・3回程結婚を考えたことがあり、お見合いや出会いがあったが、タイミングが合わなかった」と話した。そして「誰かを信頼して、好きだと思える人がいることはこういう仕事をしていく上で大事。今はいません」とし、「茶飲み友達がいたら良い」と話した。また、「昔は年上が好きだったが今は年下が良い」と話したが、「今は友達が居れば良い」と話した。そして、タイプについて質問されると「尊敬できる方」と話し、「私は欠落しているところが多いから知的な人が良い」と語った。また、後のインタビューで「結婚を諦めたわけではない」とも語っている。
アメリカの『タイム』、『ニューズウィーク』、『ニューヨーク・タイムズ』、『ヘラルドトリビューン』、『ピープル』などに日本を代表する女性として紹介されている。
放送のハイビジョン化が進むとハレーションが使えなくなるので、その時には引退するつもりである、と発言している。
1971年のニューヨークへの留学以来「圧迫感がないからいい」とノーブラで過ごしており、『ザ・ベストテン』の司会で白いドレスを着ていたところ、乳首が透けて見えていたのを久米宏に注意されたこともある。その時は、ティッシュペーパーを入れて、その場をしのいだ。ノーブラで過ごしていることについて黒柳は「胸が下がってくることを恐れるなんてことは、ある年になってくるとどうでもいいことになる」とも発言している。
2013年上期のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』のファンであり、初回から最終回まで全話視聴したと話す。なお、同作内に『ザ・ベストテン』のパロディ番組並びに黒柳を模した司会者役(演:清水ミチコ)が登場している。
愛車は、トヨタ・MIRAI。
日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉会長を務める。
尊敬する司会者に度々エド・サリヴァンの名を挙げる。
「黒柳」とサインを書くときには柳の異体字である「栁」(木偏に夘)を使う。

 

【 黒柳徹子さんモンスター伝説 】
「食べ物を消化するスピードが人より4倍ぐらい速い」と医師に言われる。
天皇陛下のお妃候補だった。
徹子の部屋のスタッフがゲストについて相談した時「私は馬と話せるので、ハルウララ(連敗で人気になった競走馬)にして欲しい。」
有吉さんからクソババアと命名され大激怒。
基本的に水を飲まない
留守番電話のテープが切れる寸前まで延々と話し、切れる直前に今度会ったら要件話すわね、と電話を切る。
ユニセフ大使として貧しい国に赴く際は基本的にドレスか派手な服。これはその国の子供達に憧れてもらうためらしい。
ほとんど手を洗わない!「手が汚い」と近藤真彦さんに指摘された。
犬と猫の区別がつかない。
風呂は1分!
ユースケサンタマリアが徹子の部屋に出演した時にされた質問。「学校を早退したくて仮病を使ったら救急車を呼ばれて盲腸の手術をされてしまった時の話をしてください」全てを先に話す。
サイダーの事を「ガス入りお水」という。
村上ショージさんが、徹子の部屋に出演した際に黒柳さんは「スベり芸を開発された方」と紹介した。
徹子の部屋に出演したイチローに、なぜヒットを打ったあと三塁に走ったら駄目なのかと訊ね絶句させる。
「私には使命があるから死なないのよ!」と地雷地区を平然と通り抜ける。
森繁久彌に夜のお誘いをされたことがあると葬儀のときに話してました。
TDLのアトラクション、イッツ・ア・スモールワールドの中に彼女をモデルにした人形がある。
トランプを素手でちぎれる。
徹子の部屋にて。僕ら麒麟の漫才を見たいというのでその場で完璧に五分やりきったら感想が「お元気そうで、なによりです」だけだった。
品川庄司の漫才を見て『品川さんがふざける人で、庄司さんがそれを訂正なさる人?』と言っていました。ボケとツッコミの解釈が丁寧。
バスの中で泣いてる他人の赤ちゃんに対して、あなたが泣いたらみんなが困ると説明して黙らせたそうです。
さかなくんに、さんざん魚の知識を聞き出した挙げ句、「で、あなたやっぱりイジメられたりしなかった?」と半笑いで聞いてました。
徹子さん「そう、私それ聞いてびっくりしたんです、最後の座頭市があなたでいいのかしらって。」
徹子の部屋で本人を目の前にしてモノマネを披露したAKBを半分死んだ目で見て「腕を研いてそっくりにして下さい。」と言うも特に空気は悪くならず。
しょこたんの座右の銘「貪欲」を「どん底」と言い間違える。
徹子の部屋で「本日のゲストは、ハワイ、離婚焼けの松原千明さんです」と紹介してました。
徹子さんが嫌いな動物は「魚」で、片岡鶴太郎さんの魚の絵を見て、睨み付けながら「わたし魚嫌い!よくまぁ三越の催事場もあなたの個展を開くような事するわね。芸能人特典か何か?」と聞いてました。


 

データ


本名:黒柳徹子
愛称:トットちゃん、チャック
生年月日:1933年8月9日
出生地:東京都港区乃木坂


身長:163cm(?)
体重:43kg(?)
血液型:A型


配偶者:独身(未婚)
最終学歴:東洋音楽学校(現:東京音楽大学)
事務所:吉田名保美事務所
趣味:ー
受賞歴:ー
 
 
 



出演ドラマ

2016年 トットてれび( NHK総合 )- 百歳の徹子さん 役
2014年 死神くん 第7話( テレビ朝日金曜ナイトドラマ )
2014年 森光子を生きた女〜日本一愛されたお母さんは、日本一寂しい女だった〜( フジテレビ )ナレーション
2011年 おひさま 最終話( NHK連続テレビ小説 ) 須藤(旧姓筒井)育子(現代)役
2009年 歌のおにいさん 第5話・最終話( テレビ朝日金曜ナイトドラマ )
2007年 和田アキ子殺人事件( TBS )
1987年 チョッちゃん( NHK連続テレビ小説 )
1975年 あこがれ共同隊( TBS )
1975年 元禄太平記( NHK大河ドラマ )
1973年 銀座わが町( NHK )
1971年 繭子ひとり( NHK連続テレビ小説 )牟田悌三と夫婦役を演じた。
1971年 鬼退治( NET ) 巴役
1970年 おさな妻( 東京12チャンネル )
1970年 乱戦模様( NHK )5月15日)- ルリ子役
1967年 徳川の夫人たち( NET ) 矢島局役
1961年 若い季節( NHK ) 黒金徹子役
1959年 夜の仲間( NHK )


 

 

出演映画

2013年 いわさきちひろ 〜27歳の旅立ち〜( クレストインターナショナル ) ドキュメンタリー
1999年 アイ・ラヴ・ユー( 全国映画センター ) 本人役(特別出演)
1977年 春男の翔んだ空( 現代ぷろだくしょん ) 書店の客役
1974年 ムツゴロウの結婚記( 松竹大船 )
1972年 サマー・ソルジャー( 勅使河原プロ )
1966年 喜劇 駅前漫画( 東京映画 ) ミミ子役
1962年 ちんじゃらじゃら物語( 松竹京都 )
1958年 海は生きている( 日活 ) ドキュメンタリー。東野英治郎と共に解説。

  

 
 


 


 


2稿:2017年11月18日、テレビの悪足掻き
初出:2015年08月09日、テレビの悪足掻き