★[感想]ゴジラ(昭和29年度)

 感想記事の抜粋


原題 ゴジラ
惹句 ゴジラか科学兵器か驚異と戦慄の一大攻防戦!
監督 本多猪四郎
俳優 宝田明
女優 河内桃子
俳優 平田昭彦
俳優 志村喬
蘊蓄 田中によればこのなか、三島由紀夫のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」「文明批判の力を持った映画だ」として当時、ドラマ部分を含めて本作を絶賛してくれたという。
最初の怪獣映画なのに、すでに怪獣映画を超えている。1954年版ゴジラの感想です。

 

 

作品紹介

怪獣映画の原点、ゴジラの記念すべき第1作。
放射能を吹く巨大生物、着ぐるみとミニュチアによる表現など、すべての怪獣映画のルーツ。
終戦からわずか9年、戦争の傷痕癒えぬ東京を今度はゴジラが襲う。
第五福竜丸事件などを当時の世相を背景に大ヒットを記録。

物語

太平洋上で相次ぐ貨物船の沈没。台風の夜、漁村を襲う何か。押し潰されるように倒壊した家屋。災害調査団が結成され、島を訪れる。そこで遭遇した巨大怪獣。その足跡からは放射能物質と三葉虫が見つかる。

《 ゴジラ 》。

島の伝説からそう名付けられた怪獣、、やがて本土東京に上陸。圧倒的なパワーで東京を蹂躙する。

感想

◆ ファーストウォーズ

冒頭、スクリーンに《 海上保安庁全面協力 》の文字。おぉ~。変拍子(時々5拍子になる)の有名なテーマも新しく聞こえます。

50周年そしてシリーズの最後、《 ファイナルウォーズ 》が公開中のゴジラ。評判高い第1作目(白黒)を観てみました。ひたすら破壊を繰り返すゴジラもすごいですが、半世紀前の東京の風景、そこに住む人々の方がインパクト大でした。

◆ ルーツ、その完成度

タイトルバックの後、白黒のため青いんだか黒いんだかわからない海。まるで石油の海の様。突然、海は光り大きく盛り上がる。大慌ての船員、転覆する漁船。一体何が?・・・お決まりのツカミ、巧いです。

次々と送られてくるSOSに、混乱する海上保安庁。心配する船員の家族が押しかける中、救助船が数名を助けたとの知らせ。どの船の船員かと沸返る家族、しかし次に入った知らせは救助船の沈没。・・・面白い。

対策会議。気が付かなかったけど女性代議士は若い頃の菅井きんらしい。宝田明は完全に別人だし、志村喬だけが変わっていないのがすごい。
(^_^;

大戸島に渡った調査団。ガイガーカウンターで村を探索中にケタタマしい半鐘の音。突然、尾根から顔を出すゴジラには驚きました。白黒のためかその存在がリアル。浜辺に残った足跡、尻尾跡にも納得です。さすが怪獣映画のルーツ。大人も引き込まれるクオリティです。

ゴジラの登場に叫び声をあげる女優。そのアップがスクリーンから溢れるばかりの超アップ。ゴジラよりもこっちのほうが怖い。
(^_^;

◆ ゴジラ観光

東京湾に潜んでいたゴジラは品川に上陸。電車じゃなく汽車が走っているのにまず驚き。進路を塞ぐゴジラの足、ブレーキも間に合わず脱線。ゴジラは車両を咥える大立ち回りです。カメラはゴジラを見上げるアングルが多く、巨大さが強調されます。

東京の夜がまだ暗く、空は広かったのも感動。次の上陸でゴジラは高圧電流の防衛戦を突破、銀座へ向かいます。まるでその辺の横町のような銀座。でも既に和光はあった模様。数寄橋はまだ本当に橋。渡るゴジラに振動で川の水が跳ねる特撮に唸りました。

高い鉄塔(東京タワーではない)からラジオの中継をするアナウンサー。ゴジラが迫っても中継を止めず、「さようなら、みなさん」と言いながら塔諸共落下。・・・昔の人は真面目だ。

◆ 反核?反戦?

国会議事堂まで来る頃には一面火の海。炎以外は黒なのにスクリーンは真っ白。これが東京大空襲のイメージと言うのだから、B29は怖い。

松屋デパートの下「もうすぐお父ちゃまのところにいくのよ」という子連れのホームレス。ゴジラが去った後の焼け野原。避難所にはうめき声と泣き声が溢れ、動かぬ父親を見つめる幼い少女が一人。まさに敗戦目前の日本のよう。

封切り(リアルタイム)で見た人には、各々の記憶と重なって辛かったに違いありません。ゴジラは水爆であり、B29であり、圧倒的なパワーを持つアメリカの象徴なのでしょうか? 敗戦の鬱憤相手を怪獣に昇華。そのお陰で、日本人はテロに走らずに済んだのか。そう考えるとハリウッドで映画化されたり、ヤンキースで4番を打ったりしているゴジラは皮肉な存在です。
(^_^;
 

薀蓄

ゴジラのテーマ演奏には黒柳徹子の父が参加している
(多分)初代ゴジラの撮影中、着ぐるみが燃えて 中の人が火傷しかけたことがある
円谷英二と監督がビルの屋上で「あのビル郡を破壊して火の海にしてみたい!」とか演出プランを話し合っていたら過激派と間違えられてビルの警備員に通報され警官の職務質問受けたらしい
ゴジラのテーマを作曲したのが伊福部昭という人、緊急地震速報の警報音を作ったのがその甥である伊福部達という人ですな。

ちょうどその頃、ビキニ環礁での核実験と、第五福竜丸の被爆事件(同年3月)が社会問題となっていた。これに着想を得た田中は、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の企画を立てた。この時点での企画仮題は、『海底二万哩(マイル)から来た大怪獣』であった。
円谷は1952年(昭和27年)の春に「海から現れた化け物のようなクジラが東京を襲う」、また、1953年(昭和28年)には「インド洋で大蛸が日本の捕鯨船を襲う」という特撮映画のプロットを企画部に提出していた。この円谷の企画の着想は、1945年(昭和20年)の東京大空襲の最中、防空壕に避難していた時に思いついたものであり、家族に対しても、これで戦争の恐ろしさを書いてみたいと語っていた。このいきさつもあり、円谷は怪獣の設定を「大蛸」にすることを主張した。一方、田中は「(当時の)風潮によりマッチする」としてこれを「太古の恐竜」とすることを主張、結果として田中案が採用され、主役の怪物のキャラクターは「太古の恐竜」となった。
田中はただちに監督に、前年に2本の特撮作品『太平洋の鷲』と『さらばラバウル』で円谷と組んだ本多猪四郎を抜擢、また、同じく前年に円谷と日本初の立体映画『飛び出した日曜日』を撮った村田武雄をいれ、本多と村田の2人で脚本製作に入ってもらった。田中友幸は、題名が『海底二万哩から来た大怪獣』では長いので、もっと良い題名はないものかと考えあぐねていたところ、佐藤一郎プロデューサーから、当時東宝演劇部にいた”「クジラ」が好物で「ゴリラ」のような容貌”をした網倉志朗(後の東宝演芸部部長)という人物のあだ名が「グジラ」だと聞きつけ、語呂の良いこのあだ名を参考にし、「ゴリラ」と「クジラ」を合わせて「ゴジラ」とした。しかし、この名称もまだ完全決定というわけでなく、「”ゴジラ”では印象が弱いから”ゴジラー”にしては」といった意見もあったという(向山宏談)。
当初、円谷英二はゴジラの撮影方法について欧米に倣い、人形アニメの技法を検討したが、11月3日の封切り上映日から逆算して工程上無理と判断し、演技者が中に入る形でのぬいぐるみ方式を採った。メインの演技者を務めた中島春雄は円谷に、「人形アニメでやれば7年かかるが、お前が演ってくれれば3月でできる」と口説かれたという。それまでの映画の怪獣というと人形アニメでの表現しかなく、カメラマンの有川貞昌も中島も「ぬいぐるみでやるぞ」と円谷に言われても全くイメージが湧かなかったという。『ゴジラ』は本格的な「ぬいぐるみ怪獣」としても日本初の取り組みだった。
制作に当たっては、超大作の扱いで公称7000万円(当時)という大型予算が組まれ、本編面では黒澤組から志村喬を準主演に、成瀬組からカメラの玉井正夫と美術の中古智、照明の石井長四郎を迎え入れる等ベテランを起用。予算面での規模が大きかった為、当時製作部長だった北猛夫を特別に「美術監督」に据えている。 特撮を担当した円谷英二は、本作の為に飯塚定雄、井上泰幸、開米栄三、入江義夫等、各方面から若いスタッフを集めている。この面々は以後、日本特撮界に欠かせない重鎮となっている。
円谷組の特撮B班の撮入は少し遅れ、8月下旬からとなり、10月下旬まで71日間、都合3ヶ月かけての撮影となっている。円谷監督は若いスタッフを率い、徹夜作業を重ね凝りに凝って撮影に当たった。「朝9時にセットに入り、準備を経て17時ごろから撮入、朝の4、5時に撮影を終わる」という連日の強行スケジュールで、スタッフからは「ゴジラは5時らにならないと終わらない」と言われていた。ミニチュア設営に時間がかかるため、大道具係から照明係にいたるまで、総動員してもこのような進行にならざるを得なかったのである。公開時の「東宝スタジオ・メール」には、「だんだん調子が出てきてこれならと思っているうちにクランク・アップした。特殊撮影では、最高を誇るアメリカ映画界に負けない自負を持っている。自慢したいようなしたくないような妙な気持ちです」とコメントしている。
この式典の後、東宝の上層部、スタッフを集めて撮影所内で行われた完成試写では、その本編・特撮のでき栄えのあまりのよさに場内総立ちとなり、巻き起こった万歳斉唱と大拍手はいつまでも鳴り止まなかったという。そんな中、原作者の香山滋は、ラストシーンでゴジラが「オキシジェン・デストロイヤー」によって溶けて死ぬシーンを哀れに思い、1人座ったまま感極まって泣いていたという。マスコミ向けの関係者試写は続いて浅草宝塚劇場でも行われたが、この際も香山は目を潤ませていたほどで、円谷によると、香山は作品のできに感激し、公開後にはスタッフ一同を招いて熱海で一泊の宴席を開いてくれたという。
東宝では封切り劇場内で多数の児童にアンケートが採られ、ゴジラに同情する意見が多く寄せられた。また、観客からも「なぜゴジラを殺したんだ?」「ゴジラがかわいそうだ」という抗議の声があったという。宝田明も「ゴジラにシンパシーを感じた」「何故人間が罪のない動物を殺さなければならないのか、無性に涙が出るのを禁じえなかった」、脚本担当の村田も「ゴジラがかわいそうですよ」と語っており、スタッフ内にも同情の意見は多い。
一方、公開時の日本のジャーナリズムの評価はおおむね低く、「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きも多かった。各新聞の論評でも、特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計」として、本多の意図したものを汲んだ批評はみられなかったが、田中によればこのなか、三島由紀夫のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」「文明批判の力を持った映画だ」として当時、ドラマ部分を含めて本作を絶賛してくれたという。著名人としてはのちに小津安二郎、手塚治虫、淀川長治、水木しげるらが本作を絶賛している。この作品は海外でも大評判となり、すでに特撮技術者として並ぶ者のなかった円谷英二の名が、広く海外にまで知れ渡ることとなった。田中や本多は、「まず欧州で認められ、アメリカで大ヒットしたことで、日本国内の評価が定まったようだ」としている
伊福部は1949年(昭和24年)に、出張先の京都での月形龍之介との酒席が、円谷英二(公職追放中で困窮していた)との初対面だったが、月形が知り合い同士と思って紹介しなかったため、互いに名も知らないまま、しばらくは会うたびにただ酒をおごらされる付き合いとなっていた。その5年後、本作の制作発表の壇上で再会し、初めて互いの素性を知って驚いたという。こうしたいきさつで円谷とは「気兼ねなく仕事ができた」といい、本作では例外的に編集前の特撮フィルムを見せてもらい、作曲イメージを構築したという。ただ、この作品での円谷はかなり秘密主義だったため、白抜けのフィルムだけを見せられることもあり、これには閉口したという。
当時の政界では造船疑獄、犬養健法務大臣の指揮権発動などもあり、吉田茂内閣や政治への不信感が国民の間に高まっていた時期であった。そのような時代背景か、助監督として参加した梶田興治によると、ゴジラが国会議事堂を破壊したシーンでは観客が立ち上がって拍手をしたという。
撮影初日にゴジラのぬいぐるみが重さに負けてひっくり返り、セットを踏み抜いたために、初日から美術スタッフは徹夜となった。
劇中のゴジラの身長が、円谷の「和光ビルの時計台を壊そう」という意見から、「ビル街の上から頭が覗く」とされ、「50メートル」と設定されたため、これに合わせて、ミニチュアはすべて25分の1スケールに統一された。東京の市街地の精巧なミニチュア群が作られたが、銀座のミニチュア制作では、当該ビルから図面の提供を受けられないことも多かったため、円谷は渡辺、入江義夫、牧野金太郎、井上泰幸ら美術スタッフとともにロケハンを行い、歩測して寸法を割り出し、井上と入江が図面を引いた。銀座のビルの上でのロケハンでは、円谷が「あそこのビルを燃やそうか」などと打ち合わせをしていて警察官から不審尋問を受けている。
国会議事堂の破壊シーンでは、実際の議事堂がゴジラと同じ高さ(50メートル)なので、ゴジラの巨大さを表現するため、33分の1に縮小したミニチュアが作られた。ゴジラの壊す日本劇場のミニチュアには、スタッフのお遊びで、『美女とゴジラ』と題した映画看板がかけられている。銀座和光ビルの時計塔は、本番でうまく壊れてくれず、作り直して再度撮影を行っている。
品川駅付近でゴジラの足に衝突してきた国鉄EF58形電気機関車の模型は交通博物館から借りたものである。
多によると、ゴジラが出現して島民が逃げるシーンの撮影で、当時映画の撮影など見たこともないエキストラの石鏡町民たちに、「ゴジラは(今、目の前のここに)いないのに、どうやってそんなものを撮るんだ?」と口々に聞かれて説明するのに苦労したそうである。また、地元民たちはどうしても理解できなかったようで、「あそこにゴジラがいます」などと説明するたびに彼らが笑うのにも閉口したと述懐している。
ゴジラの劇中初登場は山から顔を出すシーンだとされることが多いが、実際には嵐の夜の大戸島襲撃シーンに足が写っている。
ゴジラが劇中で銀座和光ビルの時計塔を壊すシーンがあるが、梶田興治によると、和光本社はこれに激怒し、以後2年間ほどは東宝の一切のロケ使用を許可しなかったそうである。梶田によると映画を観た後、本当に銀座和光ビルが壊されたかどうか、確かめに来る人たちがいたという。また、ゴジラの白熱光で炎上する松坂屋の社長は、「縁起でもない」と怒り狂ったという。「キングコング対ゴジラ」のオーディオ・コメンタリーによればこの件でしばらく銀座出入り禁止になったらしい。
ゴジラを倒す芹沢博士役の平田昭彦は『大怪獣バラン』ではバランを特殊火薬で倒した藤村博士、『ウルトラマン』ではウルトラマンでも倒せなかったゼットンを無重力爆弾で倒した岩本博士役と本作以降も怪獣を兵器で一撃で倒す役柄を演じている。
ゴジラを倒す芹沢博士役の平田昭彦は『大怪獣バラン』ではバランを特殊火薬で倒した藤村博士、『ウルトラマン』ではウルトラマンでも倒せなかったゼットンを無重力爆弾で倒した岩本博士役と本作以降も怪獣を兵器で一撃で倒す役柄を演じている。
海外版『ゴジラ』は全米のみならず世界50か国で上映されて人気を呼び、400億円もの外貨を得る[注 24]と共に、怪獣「ゴジラ」の名を世界に轟かせた。スティーヴン・スピルバーグも少年時代に本作を観て「どうして怪獣をあんなに滑らかに動かせるんだろう」と衝撃を受けたという。ただし、当時の時代背景に配慮したためか、「政治的な意味合い、反米、反核のメッセージ」は丸ごとカットされている。

 
香山滋原作のゴジラが東京に上陸した時、その歩みは東京大空襲のB29のルートそのままだった。
ゴジラの頭の形はキノコ雲、背中は放射能の光をイメージ、顔はの動物の重ね合わせて作られた。
 

資料

原題 ゴジラ
英題 Godzilla
惹句 水爆大怪獣映画
惹句 ゴジラか科学兵器か驚異と戦慄の一大攻防戦!
惹句 放射能を吐く大怪獣の暴威は日本全土を恐怖のドン底に叩き込んだ!
脚本 村田武雄、本多猪四郎
原作 香山滋

監督 本多猪四郎
製作 田中友幸
指揮 森岩雄
音楽 伊福部昭
主題
撮影 玉井正夫
編集 平泰陳
美術 中古智
視覚 円谷英二、向山宏、渡辺明、岸田九一郎

俳優 尾形秀人 / 宝田明
俳優 芹沢大助 / 平田昭彦
俳優 山根恭平 / 志村喬
俳優 田辺博士 / 村上冬樹
俳優 萩原 / 堺左千夫
俳優 南海汽船社長 / 小川虎之助
俳優 政次 / 山本廉
女優 小沢婦人代議士 / 菅井きん

会社 東宝
配給 東宝
公開 1954年11月03日
上映 97分
国旗 日本
言語 日本語

費用
収入 1億5,214万円


 
 

本編を観るには・・・

 

参考・引用

ゴジラ (1954年の映画) – Wikipedia

更新履歴

5稿)2021年07月27日、シネマドローム
4稿)2018年02月28日、シネマドローム
3稿)2015年05月24日、シネマドローム
2稿)2011年01月04日、シネマドローム
初出)2004年12月27日、東京つまみ食い

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