● こんなところで弁慶が・・・。鎌倉時代が身近に感じられます。義経はここで何をして時間を潰したんだろう?

  レポート

● 壇ノ浦の戦いのあと、鎌倉に入ろうとした義経。しかし兄頼朝の怒りを買い、しばしここ(その当時は見性寺)に留まったとか。弁慶はその間、般若経を書き写していたそうです。硯の水を汲んでいたのがこの井戸、だから硯の井戸です。

● う~む、この寺はそんなに古いものなのか。江戸時代ならともかく、平安時代とは。この辺は歴史を感じさせるものが多いなぁ。でも昼なお暗き井戸、長く見ていると中から髪の長い女の人が出てきそうです。きっと出る~♪ きっと出る~♪
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Bubaigawara - kouanji
 
■ 高安寺、オーブ(玉響)もたくさんお出迎え ■

 
 
 

  案内 ~ 高安寺

● 平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まり。
● 平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。
● 南北朝時代には、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまった。
● 暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興した。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名された。
 
 
 

  地図


 
  
 

  リンク集(参考サイト)

高安寺 – Wikipedia
 
 
 

撮影年月:2009年09月
撮影場所:分倍河原
カメラ:Sharp SH-04A



[ 更新記録 ]

4稿)2016年10月22日、街角アイキャッチ
3稿)2016年01月27日、街角アイキャッチ
2稿)2009年10月19日、東京つまみ食い
初稿)2009年09月25日、あの町この街 まち歩きん!