分倍河原駅、ロータリーの真ん中にある新田義貞の像です。
新田義貞って誰だっけ? 鎌倉幕府を終わらせた人か。南北朝時代、南側の人なのね。学生時代、インターネットがあればなぁ。
案内 ~ 新田義貞
新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。
鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。
鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。
案内 ~ 分倍河原の戦い (鎌倉時代)
分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
地図
リンク集(参考サイト)
分倍河原古戦場碑・新田義貞公之像 東京都府中市ホームページ
新田義貞公之像|府中ナビ
新田義貞公之像 – Monumento(モニュメント)
広瀬すず主演「ちはやふる」の千早たちが住む街“府中”【 32 / 34 】|ウォーカープラス
撮影場所:分倍河原
カメラ:Xperia Premium SO-04J
初稿)2019年06月01日、街角アイキャッチ、東京つまみ食い