今の今まで、横綱町公園だと思ってました。本当は横網町公園だそうです。

(^_^;)

犠牲者の集まる場所

  レポート

旧安田庭園の周りをぐるぐる。お寺かと思ったら公園がありました。横網公園。・・・ここは一体。
( ゚Д゚)
 
 


 
 
塔があるのでお寺かと思いましたが、違うようです。
これは・・・。
 
 

 
 
震災児童弔慰群像。震災ってどの? 関東大震災で被災し犠牲となった児童らを弔うために作られた像だそうです。確かに服装や髪形に時代を感じます。
大正時代って、焼け出された場合はどうしたんだろう? 国の補償とかなさそう。それにこれだけ大きな災害だと、今でも保証しきれ無さそうです。
いつの日か、地震災害がわが身に降りかかるのは、間違いなさそうですが。
(--;

こちらは・・・。
 
 


 
 
東京大空襲時の追悼碑。東京に焼夷弾の雨、犠牲になった多くの人を追悼する日だそうです。それにしてもなぜここに?
北朝鮮からのミサイルが飛んで来たら、今度はどこに追悼するんだろう・・・。

明暦の大火(振袖火事)の時、10万人以上の犠牲者が出たとか。その時、回向院で亡骸をまとめて供養したと聞きます。東京で処理できなくなった時に、回ってくるということ? もっとも両国も墨田区。23区ですが。

  案内

横網町公園(よこあみちょうこうえん)は、東京都墨田区横網にある東京都立の公園である。東京都慰霊堂や復興記念館があるところとして知られている。
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。
工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで38,000人が犠牲になったという。
1945年、東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。特に3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者が出た。当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。その後第二次世界大戦で身元不明の遺骨などを当公園にある納骨堂を拡張し「震災記念堂」に合祀されることになった。そして1951年に「東京都慰霊堂」と改称され現在にいたっている。

  地図


 

  リンク集(参考サイト)

横網町公園 – Wikipedia
横網町公園|公園へ行こう!
横網町公園 – Wikipedia

 

撮影年月:2017年12月
撮影場所:両国
カメラ:Panasonic DMC-LX7



[ 更新記録 ]

初稿)2017年12月30日、街角アイキャッチ