東京大学、本郷キャンパスを散策です。

  レポート

土曜日の昼下がり。縁(えん)も縁(ゆかり)もありませんが、東京大学に行ってみました。初めは赤門だけを見る予定。でも行ってみると、明らかに生徒ではない人達が続々と門をくぐるってます。

えっ、誰でも入れるんだ!?

それじゃ中を見ない訳にはいかない。というわけでキャンパス内を散策することにしました。せっかくだから、あれとあれを見てみなきゃ。
 
 


~赤門と出入りする人達~

 
 
※【注意!】後からオフィシャルページで知りましたが、実は見学及び通過には事前申請が必要だそう。でもチェックの仕組みがなかったなぁ。土日は別なのかな。

赤門をくぐると並木道の奥、正面に見えるのが医学部2号館本館。紅葉と共にいい雰囲気。でも古そう~。現在(いま)も使われているの? そう思ってしまう程、年期がはいってます。でもこれは・・・。

ゆったりと続く舗道の、その両側には豊かな緑。校舎と舗道の間に樹が生えてるという感じではありません。間に樹を植えるためのスペースがあり、そこで長年かけて樹を育てたと感じ。ここはかなり広ろそうだ。医学部の庭の前まで行って左手に折れました。

なんてアカデミックな雰囲気。じっくりと勉学に勤(いそ)しみたくなります。東大って、こんな感じだったんだ。いいなぁ、もっと早く知ってれば、もう少しちゃんと勉強してたかも。子供の頃、東大はガリ勉の行くところ。そう思って親しみが持てませんでした。マンガやアニメの悪影響かな。
 
 


~東大キャンパス内~

 
 
この校舎もか・・・。古くなってもどこか威厳のある雰囲気、時を超えたこの圧倒感は何?

不思議に思ってると、右手側から歓声が。人が集まっているので覗いてみると、そこは弓道場。大会をやってるみたいです。ヤー、トー。掛け声は誰のものだろう?
 
 
そのまま進むと向こうから団体さんが。観光客のようです。他にもカメラ片手のおじいさんや、カップル。おばちゃんグループ。確かにここは下手な公園よりは遥かに自然豊か。何より超有名スポットだものなぁ。校内マップや案内板も随所に。なるほど。ここを曲がればいいのね。

右手に下って行くと、突然安田講堂、その時計が顔を出しました。随分と高い。それもそのはず、この坂からは高台の上に位置します。見えるのはレンガ色と時計台だけ。上ってみよう。
 
 


~安田講堂~

 
 
ちょっとこの銅像も気になるけど。
 
 

~濱尾新の銅像~

  
  
ネットで動画を見ていると、時々昭和のニュース映像に出くわします。昨日見たのは三島由紀夫が割腹自殺する直前、ここで演説する姿でした。
急な階段を上り、木々の間を抜けると安田講堂の前。意外に小さい。学園闘争の象徴、機動隊の突入で放水されてる姿を映像で見た時は、とても大きな建物に見えましたが。

前庭には丸くベンチが置かれ、観光客(ご近所の人?)がひなたぼっこをしています。講堂に入れるのは東大生でも年に数回だけ。入学式とか、卒業式の時だそうです。
 
 
それにしても、ここもだ。他の建物もそうだけど、なぜこれ程古くなっても威厳がある? 最近流行りの高層ビルキャンパス、商社ビルみたいな大学は比べものにならないほど巨大なのにこの威厳はなし。学び舎(や)であることすら忘れているのに、不思議だ。レンガや石でできてるから? 周りに緑が溢れているから?

改めて安田講堂を見て気が付きました。やはり高さじゃないかな。絶対的な高さはそれ程でもないが、横幅に対する高さの比。それが大きく、そのため見下ろされ感が高いのかも。
 
 


~安田講堂を見上げる~

 
 
安田講堂の下には売店が。何か記念に買っていこう。そう思うのは私だけではないみたい。店内は結構こんでます。中はコンビニみたいですが、ここにしかないものも。東大のマーク付きの品々です。財布や定期入れに始まって、筆記具にノート、ジャージまで。でもこれは買えないな。やっぱり東大生じゃないもの。

最後は三四郎池です。夏目漱石の小説、三四郎にちなんで、そう呼ばれてるらしいが、どう、ちなむと名前を代わる程になるのでしょう。小説を読むしかない。この池は《 心 》の字の形になってるらしい。一周してみるか。
 
 


~三四郎池~

 
 
池の周りは急で狭い坂道、もちろん舗装などしてません。まるで山登りの最中に泉にたどり着いたみたい。ここは本当に23区なのか。激しく繁る木々で、すぐそこの安田講堂すら見えません。ますます、いいなぁ。

帰りに湯島天神へ。財布の中の小銭を全部投げ込んでお祈りしました。

定年後、経済的な余裕があれば、東大キャンパスで勉強がしたいので、合格させて下さい。

そう願ってから考えました。さて何の勉強をしよう。医学は血が出るから嫌だし、建築はまだまだ外国に敵わない。コンピュータは実践を学べそうにないし、ロボットは大勢じゃ作れない。美術だったら芸大か・・・。日本文学だな。そうだ、そうしよう。
(^^; 
  
 

  案内 ~ 東京大学 本郷キャンパス

東京都文京区本郷・弥生に所在する東京大学のキャンパスの一つである。東京大学の本部が設置されており、同大学の駒場地区キャンパス・柏地区キャンパスと並ぶ規模をもつ。
江戸時代、この地の大部分は加賀藩上屋敷によって占められていた。加賀藩以外にもいくつかの藩がこの地に屋敷をおき、現在附属病院が設置されている場所は富山藩・大聖寺藩、弥生・浅野キャンパスは水戸藩・安志藩の屋敷地であった。これらの屋敷地は、明治維新に際してほとんどが新政府に収公され官有地となった。
明治時代になり、1876年、藩屋敷の跡地に東京医学校(東大医学部の前身)が移転、ついで翌1877年には、医学校と東京開成学校(神田錦町に所在)を統合して法理文医4学部からなる(旧)東京大学が発足した。その後順次、神田から法・文・理学部がここに移転(1884 – 85年)、ついで法学部との合併により司法省法学校が、工芸学部との合併により工部大学校が本郷に移転し、1888年には法医工文理5分科大学(学部)の校舎からなる東京帝国大学の校地として整備された。
1889年、東大の校地に隣接する本郷弥生町(向ヶ丘 / 現在の弥生地区)に、第一高等中学校が一ツ橋から移転、1894年には第一高等学校と改称した(一高寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」にも「向ヶ丘にそそり立つ」云々と謳われた)。また明治政府による藩邸の収公後も、前田家はかつての広大な屋敷地のうち、南西の一画を所有しており、当主である侯爵・前田利為が壮大な邸宅を構えていた。
1923年、関東大震災による校舎・施設の壊滅で、いったんは代々木など他地区への校地移転が検討されたものの、結局東大はこの地区に存続することとなった。1926年には、前田家から屋敷や庭園を含む所有地(現在の懐徳館・同庭園・総合研究博物館・東洋文化研究所などの敷地)を譲り受け、代わりに前田家は当時駒場に所在していた農学部の農場の一部を譲渡され同地に邸宅を移転した(現・駒場公園)。
「本郷地区」とも呼ばれる。東大の中で最も有名なキャンパスであり、赤門や医学部附属病院、夏目漱石の『三四郎』で描かれる池(育徳園心字池、通称「三四郎池」)のほか、安田財閥の祖である安田善次郎が寄贈した安田講堂(正式名称:東京大学大講堂)がある。本郷キャンパスは、上述のように江戸時代に加賀藩上屋敷があった場所であり、赤門、三四郎池などにその名残りが見られる。また、同キャンパスは多くの歴史的建造物を有しており(東京大学の建造物#本郷キャンパスを参照)、これらの建物群のある本郷キャンパスを、東京大学総合研究博物館では「重厚な、安定した日本有数のキャンパス」と評価している。

  地図 ~ 東京大学 本郷キャンパス


 

  リンク集(参考サイト)

東京大学
東京大学 – Wikipedia
東京大学本郷地区キャンパス – Wikipedia
   
 

撮影年月:2009年11月
撮影場所:東京大学
カメラ:Panasonic DMC-FX33



[ 更新記録 ]

3稿)2017年09月02日、街角アイキャッチ
2稿)2016年02月09日、街角アイキャッチ
初稿)2009年12月07日、東京つまみ食い