【蘊蓄】
父親からは「人に迷惑をかけるな。何をやってもいいが、その道の大物になれ。泥棒になるなら大泥棒になれ」と幼い頃から教えられていたという。
敗戦後、米軍基地の街と化した横須賀で、青年時代までを過ごす。このとき米兵にもらったチョコレートやチューインガムの美味しさを知るが、米兵相手に身売りする近所の女性を目の当たりにした経験が子供心にも傷となり、その後の自分の女性関係にも限りなく影響を与えたと語っている。
ある時役者志望の友人が俳優座養成所を受けると聞き、興味本位で受験したところ、全国から1400名余りの応募がある中、僅か43名という狭き門の中を、友人は不合格で自分だけが合格。俳優になるつもりは全くなかったが、合格発表を見に来ていた佐藤オリエを見て、「こんなきれいな子が入るならば」と入所を決めた。
1960年安保闘争があり、左翼思想の新劇関係者、俳優座も千田を筆頭に反対デモに参加する。養成所にも余波が及び、石立も国会デモに参加したが「何かが違う。高倉健や菅原文太みたいになりたかったはずなのに」と思っていたという。
1969年(当時27歳)、ヨーロッパに長期旅行のため、文学座を一時休座する[注釈 3]。ドラマ撮影のため一時帰国するも、数か月後に再び渡航し、単身アメリカ・ニューヨークで4か月を過ごす。このとき、オフ・ブロードウェイで水とパンと卵だけで暮らしている役者の卵たちから「まずはスターになれ。有名になれば自分のやりたい芝居が出来る」の言葉に触発され、帰国後の1970年9月、文学座に退団届を出す。
テレビの出世作は、夫婦であることを周囲に隠し続ける教師と生徒をコミカルに描いたドラマ『おくさまは18歳』(当時28歳)。新劇出身であったため、少女漫画雑誌『マーガレット』の漫画が原作と知ってオファーに戸惑ったが、「シリアスものはいつでも出来る」と考え引き受ける。実際「コメディは、やればやるほど奥が深かった」と語っている。
このドラマの大ヒットを受けて、次のドラマ『おひかえあそばせ』(日本テレビ)の主演が決定する。人気は急上昇し、当時18歳から34歳女性の人気調査(日テレ・アドリサーチ調査)では石坂浩二に次ぐ2位と報じられた。
早口でまくしたてる台詞回しや独特の甲高い声、アフロヘアーは本人の役作りによるものである。『パパと呼ばないで』(1972年)で流行した「おい!チー坊」(杉田かおる演じる姪の千春を呼ぶ時の台詞)は渥美清が演じた寅さんに影響を受けたとし、喜劇やホームドラマをやるときの鉄則として地声を1オクターブ高く上げたりすることで、言葉の意味よりも音として心地良さを出す工夫をしていたという。また背が高いため、相手に威圧感を与えないよう、わざとズボンを下げて脚を短くみせたり、猫背にしていた。
芸能人としての最後の仕事は2007年5月13日。『ウラネタ芸能ワイド 週刊えみぃSHOW』(読売テレビ、関西ローカル)の「あこがれのあの人 数珠つなぎ」コーナーへの出演であった。自身の役者人生を振り返り「全盛期には5億から10億ぐらい稼いだんだけど、全部バクチで使い切っちゃった」とのエピソードを語った。
ヘビースモーカーで、23歳時の週刊誌の取材に「1日に70本吸う」と答えているが[17]、訃報記事でも1日に何箱も吸っていたと、知人の証言が紹介されている。
性格は物静かで非常にシャイであり、ドラマ撮影での休憩時間は喫煙所に行き、ずっと一人で黙々と煙草を吹かしているような人物だった。
バラエティ番組の出演には消極的だったが、『踊る!さんま御殿』から石立にオファーが届いた際に、女優としての仕事が減っていたかつての共演者・杉田かおるの名前を出し「彼女とセットなら出演する」と、条件付きで番組出演を承諾。杉田にとって初のバラエティ番組への出演となり、ここから杉田はバラエティ畑でブレイク。共演した俳優仲間への情の深さを持っていた。
趣味は将棋・ゴルフ・相撲鑑賞・陶芸・錦鯉・飲む・買う・打つの8つと答えていたが、晩年は主にゴルフと将棋を続けていた[6]。特に将棋はアマチュア四段で、NHKの将棋対局・特別番組に出演したことがある。宮田利男を始めとするプロ棋士たちともプライベートでの交流があった。出棺時には愛用の駒が入れられた。
(石立鉄男 – Wikipedia)